昭和54年01月07日 朝の御理解
御理解 第八節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
お道の信心によって、おかげを受けるという事は、神様のお心がわかり、お心に添い奉ろうと精進するところから、親子の情感によう似た感情が交流してくる。その交流から生み出されてくるところのおかげ、そういうおかげを受けてくれよと天地金乃神様は金光大神、いわゆる教祖の神様にそのような信心を求め、そして、伝えておられるのです。ここにお道の信心の一番素晴らしい独自性を申しましょうかね。
昨日は期せずしていろんな宗教の難行、苦行というか何か何処かの国のもう、三ケ月間も体を痛め、もうこれ以上は痛められまいという位に痛めて、そして火渡りをするとかいうような、これはどこか南方の、ああヒンズ-教とか何かいっていましたね。そういう、もう見てはおられないような修行の場をテレビで映してました。そこからまあ、不思議な働きを感じたり得たりするわけでしょうね。
昨日、先日、天台宗の十年に、一度しか出ないといわれる程しの難行、苦行を成就した人の、千日間の修行の模様を、ビデオでとってとりましたから、家の修行生の方達も皆それを見せて頂きたしたんですけど、とても、とても大変な修行ですね。もう凡俗から奥さんが自殺をされてね、それももう、五十一にもなられてから、それが一心発起されて、千日間の修行を成就されて、もうそれこそ生仏様として、皆から尊敬を受けられる身とはなられたわけです。
そこの最後のところまでもう、それは成程、とにかく歩くという事でも、日に何十里という、それを千日間歩き続けられる しかも山の中、それに断食があり不眠不休、本当に寝られない、というような最後の修行を九日間終えられる。それで水汲みの行というのを沢山お坊さん達のあの伴奏があるから出来るよねというて、もう沢山の人のお経があって、沢山の観衆がそのテレビのアナウンサ-の人が皆、その感想を聞きよりましたが、もう胸が一杯でお話が出来ませんというて、泣いて生仏様の様子をね。
もう食べてない、寝ていないというのですから、もう本当に支えられながら、一番最後のところなんかは、水汲みの修行の場を見せて頂きましたがね、もう顔もようも本当に生仏様のようになりますね。ああ成程我情我欲というものがなあんにもなくなってくるんですね。だからああいう手立てを持って、我情我欲を取る生き方、それが天地の何処にか通うものがやっぱりあるのですね。ヒンズ-教の修行じゃないけど。
それこそ大変なこれ以上体を虐待する事はなかろうと言う様な虐待を受けて三ケ月間修行してというまあ、それやこれや見せて頂いて、本当にもう自分で一心発起してそういう仏道一つに自分の心を向けるというのですから、もうこれ程わが心を神に向けるという事は、もうなかろうと思うです。命がけですからね。だから本当にわが心が神に向かうのが信心というのだといわれるけれども。
わが心を向けることの焦点が金光教の場合には、親子の情であり、天地と私共との交流の時点がお互いが、神も喜び、氏子も喜びだという、この喜びあえれる、両方が喜びあえれる信心である修行である。そこで親の心がわかりたい、いうなら天地の心をいよいよ深く広く知りたいという事になってくる。昨日その説明をしておりましたのが、たまたまよく似とると思うとったら私が中近畿に参りました時にアナウンスを金光教の教師なんです。私が中近畿にまいりました時にアナウンスを金光様の教師なんです。
その方が説明をされておられました。もう名調子でね。そしてそれをいっとられましたがわからない。どういわけにああいう何十里という道を、毎日、毎日歩かなければならないのか。そして今度修行を終わってからでも、やはり十里、二十里は毎日歩きなさるそうです。それをちようど十年前にその修行を成就した、これは若いお坊さんでしたけれども、自分の体験をともに、ああいう時期の時にはこういう心の状態。こういう修行の時にはね、こういう心の状態と説明しておられる。
そのお坊さんは、もうやっぱり凡俗に還っておられるという感じですね。十年前にその修行が終わって大きなお寺さんに坐っておられる。その修行成就したお坊さんですけど、もうやっぱり模様からお話ぶりからね、もう生仏様という感じは全然ないんです。これはそういう宗教は沢山あるのです。日本の宗教はほとんどそう言う所から、例えばここの佐賀の善隣会の場合なんかでも。
あの人もやはり大変毎日毎日何十里歩いたという修行、もうそれこそあられぬ修行をさせられた方らしいですけども、沢山の人が助かる。そして今度はすこし霊力というか、力がかけてくると又、山へ登られて信者を引き連れて又、断食とかいろいろな修行に、又いうならば、力を受けへ山へ登んなさらんならんという感じ。そういう信心が大体日本には多いですね。なら、教祖の神様もはじめの間は、それこそ人の真似の出来んようなあられもない行も、やっぱりなさったんです。
そして段々に、天地との交流、そして今日のような子供の中にくずの子があれば、そのくずの子がかわいいのが親心じゃという神様との、いうならば出会いというか交流という事になられたのです。それで表行よりは心行をせよと最後はおっしゃっておられるわけです。 その表行によって欲も得もなくなって、その我情我欲をはなれたいうなら、境地というものが、そこから確かに生まれるでしょうけれども、それはしかし、アッという間のもの、束の間のもの、その修行が終わると又我情が出てくる。
我欲が出てくるといったような事になっくると、自分も助からん、人も助からんというような事になってくる。そういう意味でね、お道の頂いている者のいうなら、お道の信心の有難い事素晴らしいところをまずバッチリと頂き止めて、そして私は信心にいよいよ打ち込んで行かねばならない。この信心ならいくら打ち込んでいっても、打ち込み甲斐があるしかも段々有難とうなってくる楽しゅうなってくる。しかも愉快にまでなっくる。しかもそれにはありとあらゆるおかげが伴うてくるという信心なんです。
それでその為にはどういう事にならないかというとまずは子供を持って合点せよといって子供かわいさを知って神の心を知れとおっしゃっておられるように、まずは親の心がわからなければならない。だから合楽理念の根本は親孝行になるというふうにいわれるわけです。本当に親孝行がしとうてたまらんと言う様な心の状態が開けてこない限り、金光様の御信心の本当のお徳は受けられない。勿論言う様な断食の行とか歩く行とか火の行、水の行といったような行は、もう止めようと仰っておられる。
いうなら表行より心行をせよとこう仰っておる。だから間違えた頂き方を致しましてね、表行より心行をせよとおっしゃるから、表行もし、してでないとシャンとせん。四神様の御教えの中に表行が出来ん者に、心行が出来るかとおっしゃっておられるところもあるし、ですから私がいう表行というのは、表行よりももっともっと素晴らしいというところがわかる。金光様の信心は楽じゃと、もう表行せんでよかからと言った様なものではなくてそれにもいよいよ増した修行だという事をいうならば。
例えば心行をここでは一本ですし、又、沢山の修行生の方達にもし、表行やらするごとあるなら破門だとさえいっておる位ですから、例えばです断食の行をしておると思って、食事にいわば相対していく、三杯食べるところを例えば二杯食べる、そういうこっちゃないですけどね、食べ過ぎんような修行をするという事。はあ、おいしかったと思うて胃袋の破れるごと食べる。この時飲んどかにゃ飲む時はないというような飲み方、そういう事をするなと心行というのは。
だから本当に心がけておかねば出来ない。これは例えば食物なら食物の行でもそうです 断食の行をしとるというような、例えば毎日毎日水行をしておると思うてです、なら朝四時の御祈念にでるならば、四時の御祈念前に水がぶって、私共もそうでしたから。水をかぶって朝参りをさせてもらっていましたから、その水をかぶる時間だけ早目に水かぶったと思うて、いうならば心行の方へ信心の方へ、お参りの方へ打ち込んでいくと、そういう修行なんです。ね。
ですからもうごまかそうと思えば何ぼでもごまかせる。けどその気になったらいうならば、それが表行に比敵するのではなくて表行のいうならば愚かさというか、愚というかね。もうお道の信心させてもらったら もうそれはいよいよ親鸞上人様がいわれたというが、雑行というのは悪行なのです 本当は悪い行なんです。もう本当に心行一本、その心行一本をです「あまつちの心知りたし道あらば示せあまつち己が心に」というように、どういう難儀な問題の中にあってもです。
どういう事によってこういう人間は難儀があるのだろう、天地の心が知りたい、その事を通して神のお心が分りたいという修行なんです。それが心行なんです。その為に手前のところで親に孝行〈です〉ね。親に孝行をする、親子の情が通い合うのと天地との交流というのが、同じような道理のものである事をわからせてもろうて、成程、親孝行しょうてたまらんというだけでもおかげ頂くなあと、その心をもって、今度はいよいよ神の心をわかりたいという心行、修行をさせて頂くと。
成程親様じゃなあという体験が生まれてくるんです。親じゃなあ親神様じゅなあとね、そして段々我情が我欲が取れてくる、我欲がとれてくる。私は今度の正月に、こんな事は皆さんにお話する事じゃないと思ったんですけど、今度の今年の修行は例えば御造営なら御造営という事に焦点をおいての修行というか、どういう修行をさせて頂くだろうかと、私は思わせて頂いとったら神様からね、今のままとおっしゃるのです。だからこれ以上に難しい事はするなと神様がいわれる。
これが私が生涯いま、私がさせて頂いている日々の修行をさせて頂く。勿論内容がいよいよ深くなっていくだろう、広くなっていくだろう。これでいろんな修行の工夫をするなと。いうならばこれで最高だと。ですからね、やろうと思えば誰でも出来るのです、金光様の御信心というものは。しかも段々内容が広うなってくる、深うなってくる、有難とうなってくる。それの根本は親に孝行したいという一念。それが神の心。天地の心を知りたいという事に繋がってきて今日の合楽理念があるのです。
だから合楽の根本理念は親孝行だとこういう。しかもそれが、昨日見たどういうわけあげな修行せなんだろうかというところがないわけです。成程、有難とうなったらああせずにはおられないだろうという事に、誰でもが合点が行くのである。なら、私の三時半から四時までの間が一番有難い時だというふうに、成程、有難いだろうなあと合点がいくわけ皆が。私は今日、たまたまその二つの表行に徹した宗教。だからまずは表行のない修行はないといわれるくらいなのが宗教ですけど、金光教の場合はね。
その表行よりも心行一つにいよいよそれを深めていくという事は素晴らしい。誰でも出来る。そして修行でありしかもその心行に徹していったら、いよいよ有難うなる。しかもおかげはこれは、いやというても伴うてくるというんですからね。今日は私は、子供の中にくずの子があれば、親がくずの子ほどかわいいとおおせられる。その親子の情というのもからです。いうならば昨日の表行の様子を見て本当に金光様の御信心、例えば、もしああいう修行を子供がもしするとするなら。
もう神様が目をそむけなさるだろうと思うですね。もうそげな修行は止めてくれといいなさるだろうと思う。けれどもね、そういう修行の向こうにあるのは、もう欲も得なからなければ、もうそれこそ生仏様と同じ事、我情もなければ我欲もないという心の状態が開けてくる事だけは間違いがない。だからそういう心が開けてくるところに、天地との交流という事にはなってくるには致しましても、金光様の御信心は本当に、人間らしいいうならば生き方をさせて頂きながらね。
そして天地とのなんというでしょうかね。本当に親子の情が通うように、素晴らしい通い方の出来れる手立てをいよいよ極めていくという信心なんです。信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのは、水をかぶってくれよ、断食をしてくれよという事は、神の心をわかってくれよと、そしてその神の心に添う生き方というのは、楽しゅうして、有難とうして、愉快にまでなれれるんだという手立てを合楽では、合楽理念といっておるわけです。いよいよ神様との交流がもう密なるものになってくる。
もうそこにおかげは落とされん、さあちっとばかり霊力が無くなってきたけんで、又山に登って修行して来じこちゃという事じゃないわけ。ね、だからそういうところに私共が金光教のいよいよ素晴らしさをですね把握しての、そういう信心を土台にしてのいうならば、おかげであり力である信心を深めるというてもそこんところに立脚しての信心を高めるのであり同時に広めていくのであるという事でございます。
どうぞ。